今年、韓氏オモニには、「アボニムには原罪がある」という独生女論を、2月に金振春天法苑長に講義させ、その後、全食口に講義し、8月には12名の学者に総括の講義をさせるという壮大な計画がありました。8月までに、家庭連合の教義の核心を「独生女教」にする恐るべき陰謀でした。

これは、9月、康賢實先生が天宙完成級の真のお母様に立つ前に、韓氏オモニをアボニムの上に立つ強力な独生女にしようとする、サタンの巧妙なたくらみであったと思われます。しかし、亨進二代王様とサンクチュアリ教会の活動により、独生女論は展開できず、大きく挫折しました。

 今後、韓氏オモニ・家庭連合は、独生女論をいったん引き下げ、独生女論は語らず、「真の父母一体」だけを主張する可能性も考えられます。もし彼らがそのような方向転換をしても、私たちは引き続き、強く、独生女論を批判しなければなりません。

 また、独生女論以外の異端行為もはっきり知り、論破することが必要です。まず、批判すべきは、「天の父母様」という祈りの言葉です。これは神御自身とアボニムが認めない、韓氏オモニが考えた偽りの神の呼称で、家庭連合の食口は、祈りのたびに、神に通じない、正体不明の神の名を唱えているのです。私たちは今こそ、「天の父母」という間違った祈りをする兄弟姉妹を解放するため、しっかり理論武装しましょう!

 

 

「天の父母様」という祈祷の間違い

偽りの神名と異端的歴史観

永田正治

 

1,      混乱期の改ざん

 

 2012年9月、私たちを襲ったアボニム聖和の衝撃を思い起こしてください。もはや、アボニムは生きて自分たちを導いて下さらないという悲しみと不安、今後の世界がどうなるかという危惧の念で、心が動揺しない食口はいなかったでしょう。しかも、あれほど待ち望み、精誠を尽くして準備していた基元節まで半年もない時点でした。当時、聖和と基元節のはざまで、食口は途方に暮れ、冷静に教会内外の動きに目を配る余裕はありませんでした。

 この混乱期に乗じ、韓氏オモニは、電撃的に、二つの重大な信仰上の改ざんを断行しました。アボニムが定めた「栄光の賜物」の天一国国歌を廃し、別の歌に変え、また、神の呼称、祈りの神名を「天の父母様」に変えたのです。

 この二つの改ざんは、後の、狂気の独生女論を導入する布石でした。韓氏オモニは原罪なし、アボニムは原罪ありとする独生女論は、家庭連合の異端行為の核心です。天一国国歌改ざんは、食口からアボニムを慕う心情を削ぐ異端行為です。そして「天の父母」という偽りの神名は、「天の父」という真の神とつながる道を閉ざす異端行為でした。それはまた、「天の父母様」と祈り始めた偽天一国時代を中心とする歴史認識を生み出しました。これは家庭連合の異端行為を歴史観で正当化する役割を演じたのです。

 

2,2016・天一国指導者会議,アンドリュー・ウィルソン教授,「天の父母と真の父母」

 

 《アボニム不在の神名》

 

昨年の2月、清平に、世界の高位公職者が集められ、家庭連合の教義を確認する会議が開かれました。ここで4人の学者が語った内容は、アボニム聖和後に改ざんされた新教義で、韓氏オモニの強い意向があり、出席者はこの内容を受け入れることを暗黙のうちに強要されるものでした。特に、アンドリュー・ウィルソン教授の、「天の父母」という神名を正当化する講義は、各国の教会で食口の教育に活用されました。

アボニムは、「真の父母」は神の代身者であり、偉大な価値を有し、一つであると幾度となく強調されました。家庭連合は、韓氏オモニの逸脱行為を正当化するために、「真の父母一体」というみ言を徹底的に利用します。アボニム原罪あり、自分原罪なしとアボニムをおとしめる説を唱えながら、異端行為を正当化するときには、アボニムのみ言を利用するのです。

 ウィルソン教授の講義も、大部分、「真の父母一体」を強調するものです。それは、韓氏オモニ独断で命じた「天の父母」という改ざん神名を、あたかも、アボニムも含めた「真の父母」が命じた如く偽装するためです。

 しかし、アボニムは「天の父母」などという呼称は認めていないのです。それが天地の真実です。この事実を覆い隠すため、「真の父母一体」を最大限に利用し、ウソの論理を無理強いします。しかし、化けギツネが人間に化けても尻尾は隠せないように、ウィルソン教授の講義には、うまく騙したつもりでも、随所に誤りと矛盾があらわれます。私たちはこの尻尾をつかまえなければなりません。それではまず、ウィルソン教授の神の呼称の変化に関する説明から見てみましょう。

 

宗教の歴史を振り返ると、神さまに対する人類の理解は、時間が過ぎれば過ぎるほど発展し、変化してきたということが分かります。旧約前の時代とシャーマニズムにおいては、人々は、山の神や川の神など、自然に向かって祈祷しました。旧約時代には、神さまがみずからを主、あるいは王としてあらわし、イスラエルの人々は神さまを自分たちの敵を打ち破り、エジプトから解放し、約束の地につれて行ってくれる、強力な主だと思っていました。それから新約時代では、神さまを天の父と呼ぶ時代に入りました。そして、今、私たちは、新しい時代である天一国時代に進入しています。では、ずっと私たちは、神さまを天の父と呼ばなければならないのでしょうか。神さまは、真の父母様を通して、私たちが神さまを天の父母様と呼ばなければならないと教えてくれました。ですからこれが、神さまの本性に対するより完全な理解なのです。

 

  これを整理すると、以下になります。

 

   シャーマニズム時代:山の神や川の神など自然に向かって祈祷した

   旧約時代:神は自らを「主」あるいは「王」とあらわした

   新約時代:神を「天の父」と呼んだ

   天一国時代:神は真の父母様を通し、神を「天の父母様」と呼ばなければならないと教えた

 

 お分かりになるでしょうか。何でもないような内容ですが、ここに重大な誤りとウソが隠れています。旧約時代には神を「主」や「王」とあらわし、新約時代には、神を「天の父」と呼んだ。これはほぼ間違いない指摘です。

 しかし「原理講論」には、新約時代の後に、神の呼称、祈りの神名が変わるなどとは、何処にも書かれていません。祈りの神名が「天の父」から「天の父母」になるという、数千年に一度の摂理歴史上の大改革を原理で言及しない訳はないのです。それ以上に、アボニムの発言に、統一教会の祈りの神名が変わるというみ言もありません。神の呼称、祈りの神名の変更は、原理にもアボニムのみ言にも無いのです。ですから、真の父母が、神を「天の父母」と呼ぶように教えたというのは全くのウソです。

 当のウィルソン教授も「お父様も祈るとき99パーセントは、神さまを父と呼んでおられます」と、アボニムが「天の父母」という祈りをほとんどしなかった事実を認めています。私の知る限りでは、アボニムが天の父母と祈られたのは2010年1月1日の祈祷、一度だけです。アボニムはこの日「天の父母」と祈り、その後は「天の父」に戻し、ずっと聖和まで「天の父」と祈られました。この事実は、アボニムは神を「天の父」と祈るべきと判断したことを示す動かぬ証拠です。ですから、後に、誰かがそれを変えることは許されない事なのです。

 家庭連合の「天の父母」という祈りは、アボニムが認めない、アボニムの意志を完全に無視したものです。この祈りの対象は、神とアボニムと無関係の、神ならぬ霊的存在です。それが、知らず知らず、食口の心霊に与えるマイナスがどれほど致命的か、想像を絶します。

 

《食口が馴染めない祈り》

 

 また、ウィルソン教授は、この祈りはいまだに食口が馴染んでいないと指摘します。

 

 今でも一部の食口のなかには、神さまを天の父母様と祈ることに対し、なじめない人もいます。皆さんの教会ではどうですか。教会のメンバーが祈祷するとき、天の父母様で始めますが、中盤になるほど、お父様、お父様、お父様と、言わないでしょうか。これをしばしば経験したとか、みずからも時々、こんなふうに言ったりとか。それは私たちの天の父母様に対する理解が、相変わらず形式だということを意味します。神さまを天の父母様として理解できる霊的利点、すなわち、本当の利点を明確に知るために、霊魂の奥深くまで受け入れなければならないのに、それができていなかったということです。

 

本当に一部の食口のことだったら問題はないのです。「私たちの天の父母様に対する理解が相変わらず形式」、「天の父母様として理解できる霊的利点、―― 霊魂の奥深くまで受け入れなければならないのに、それができていなかった」、という言葉でわかるように、全体の雰囲気として、「天の父母」という祈りを、霊的、心情的に「霊魂の奥深くまで」受け入れられない状況があるから、あえて教授はこの問題に言及したのです。

新しい祈祷の制定からこの講義まで、すでに3年の歳月が流れていました。「天の父母」が真に恵みを実感するよい祈りであったら、食口は親しみを感じ、喜んで祈り、すぐに馴染んだはずなのです。そんな恵みを感じず、3年たっても馴染めない祈り、神の呼称、それ自体が異常なことです。「天の父母」になじめないのは、なじめない食口の信仰に問題があるのでなく、偽りの神名の霊的背景に問題があるのです。

アボニムが、「天の父母」という呼称を避けたのは、人の信仰、心情において、神の呼称、祈りの神名にはなり得ないと、霊的に感じ取られたからでしょう。私たちはそれに従うべきなのです。

アボニムが、陽・陰の二性性相を属性として備える神を強調したのは、神の父性しか問題にしないキリスト教に向けられたものです。アボニムは二性性相の神を認めますが、神の呼称はどこまでも「天の父」と定めました。その教義上の根拠は、創造原理に明記されています。

 

―「男は、神のかたちであり栄光である」と記録されている聖句は、正にこのような原理を立証しているのである。このように、神は性相的な男性格主体であられるので、我々は神を父と呼んで、その格位を表示するのである。(,47)

 

この原理の内容が、神を「父」と呼ぶことを明確に教えています。これは長く、全ての食口が共有してきた神観でもあります。アボニム聖和の年である2012年に出版され、全ての食口に学ぶことを命じられた「原理本体論」にも同じ内容が記されています(,8384)。「原理講論」はアボニム46才の経典、「原理本体論」はアボニム晩年の経典です。統一運動の二大経典は、神を「父」と呼ぶことを明記しているのです。サンクチュアリ教会は「原理本体論」を尊び、家庭連合は、真理が書かれている、自分たちに都合の悪い経典を、絶版にしました。

こんな確かな指針があるにもかかわらず、韓氏オモニはそれを無視し、「天の父母」という偽りの神名を制定したのです。このような異端の呼称は、神とアボニムのみ心を踏みにじる、反神様・非アボニムの神名以外の何ものでもありません。

 

《神がのぞむ呼称は「父」》

 

創造原理では、存在物は主体と対象という関係性で成立していると説きます。性相と形状、陽性と陰性は、それぞれ主体、対象の関係にあります。ならば、神の両性も、陽性が主体で陰性が対象です。神がご自身の名をあらわす、或いは、人間と対するときには、当然のこととして、主体である、陽性としての、男性・父としてご自身をあらわされることは、天地自然の理なのです。創造原理の内容からみても、神は、人間がご自身を「父」と呼ぶことを望んでおられるということを理解できます。

また、神は歴史を導かれました。宗教において、数千年ものあいだ、歴史的に継承されたものは、神が良きものとして、人間に受け継ぐように摂理されたもので、永遠性をもちます。

神が人間の「父」であるという認識は、悠久の旧約時代から歴然として存在するのです。聖書には、「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である」(出エジプト記4.22)、「主はあなたを生み、あなたを造り、あなたを堅く立てられたあなたの父ではないか」(申命記32.6)などという記述がみられ、ユダヤ教徒も神を「父」と認識していた事実が分かります。

ですから「父」は、旧約、新約、成約の三時代をつらぬく神認識です。「父なる神」は、ながい歴史を通じ受け継がれ、伝統があり、それ自体が完成され、永遠性をもつ不変の神名なのです。

それだけでなく、「主」も「王」も、旧約、新約、成約の三時代で使われているのです。神とメシアを示す「主」は、私たちの聖歌に頻繁にあらわれます。「王」もおなじです。「神様王権即位式」など、様々なかたちで使われます。ですから、「父」、「主」、「王」は、全ての時代に使われ、しかも、相互に葛藤なく、それぞれ固有の意味に基づき神を表現し、高い宗教的価値を有する神名なのです。

ですから、神の呼称の歴史は、決して、ウィルソン教授の説のように、不正確から正確に発展したなどと単純化はできないのです。教授の言い方は、「神さまを天の父と呼ばなければならないのか」、「天の父母様と呼ばなければならないと教えてくれた」。「霊魂の奥深くまで受け入れなければならないのに」など「~なければならない」と、神の呼称について、義務や強制のようにとらえる表現を多用します。

人は神の強制で「天の父」と呼んだのではありません。「天の父母」と呼ばなければならないと強要するのもおかしいのです。また、それに馴染まないと言って「霊魂の奥深くまで受け入れなければならない」と叱責するのもおかしいのです。

更にウィルソン教授は、「主なる神」、「王なる神」は争いの時代の産物、「父なる神」は男尊女卑の時代の産物だと指摘しています。一方、「天の父母」は神の本性を正確にあらわした優れた神名とし、神の呼称に優劣の差をもうけました。当然、教会で劣った祈りはできず、家庭連合では他の祈りをさせません。そのため「天の父母」は、歴史的に融和してきた「父」、「主」、「王」と共存できず、葛藤しているのです。

神の呼称は、神が導き、また、人々の自然な信仰心から使われてきたものです。しかも、ゆっくり、ゆっくり、数千年をかけ、他の神名と融和し相互に葛藤なく使われた、神と人がしっかり守り続けた、心の通った呼び名なのです。

神の呼称は、ある人物が、突然、一方的に命令し、押し付けるようなものではありません。「天の父母」という呼称は、神の導きも、アボニムの許しも、歴史的伝統も踏まえない、韓氏オモニが、偽基元節直前の虚を突いて導入した、偽りの神名なのです。

 

 《「原理原本」引用の矛盾》

 

 ウィルソン教授は、アボニムが65年前に書かれた「原理原本」が、「天の父母」を確信する手助けになったと言っています。彼は、「天の父母」という神名を正当化するために、アボニムが1951年に書かれた「原理原本」の内容を数ヵ所引用します。

 

 原理である夫に対する夫人たちは、美で現わさなければならない。天のお母様の代身分体として、第2の善を愛一体で完成して、基本の善との一つの道を探し立てればこそ、理想の善を造成するようになるのです。夫婦は、天の父と天の母を代身する者たちなので、極めて貴い対象の位に立っている。だから、各自は天の父母を代身して、お互いを貴く敬わなければなりません。

(『原理原本』wpk 172)

 

 1952年に書かれた「原理原本」のつぎに「原理教本」(1957)、そして「原理講論」(1966)が書かれました。「原理原本」には「天の父母」に対する記述がおおく見られます。しかし、「原理原本」から14年後に書かれた「原理講論」には、「天の父母」に対する記述は大きく後退しました。これは、アボニムが、神の正しい認識は「天の父」であると判断した、厳然たる事実を示すものです。もしアボニムが「天の父母」が正しいと思われたなら、「原理講論」で明確に教義化しないはずはないからです。

ウィルソン教授は、「原理原本」を持ち出し、アボニムが早くから「天の父母」という神認識に強い関心をもっていたと主張します。しかしアボニムが、神の呼称という、宗教上の重要問題に強い関心をもっていたならば、神に祈り、模索し、何が正しい神名なのかを、真剣に考えたはずです。 

そして、もしアボニムが「天の父母」が正しいと判断したら、とうの昔に、統一教会の祈りは「天の父母」に変わっていたはずです。1952年から聖和に至る60年ものあいだ、アボニムが「天の父」と祈り続けた事実そのものが、「天の父母」は神の呼称、祈りの神名にはなり得ないと判断されたことを証すのです。

ウィルソン教授はこのような「前後関係」に気が付かないのでしょうか? 家庭連合は、食口が共有していていない、到底信じられない教義を信じ込ませるため、膨大な過去のみ言から、自分たちに都合のいい部分を見つけ出し、はなしを組み立て、偽の教義をつくります。教授の「原理原本」利用も、み言の中から、自分に都合のいい内容を探し出し、話を組み立てる、家庭連合の教義ねつ造の典型例と言うべきです。

 

《性別不詳の神名》

 

もっと自然な感覚として、「天の父母」がおかしいと感じるのは、性別が不詳だからです。父性の神を信仰するユダヤ・キリスト教のみならず、日本を代表する新宗教である天理教も、神を「親神様」と親しみを込めて呼びますが、「親神天理王命」という男性・父性を強くあらわす神名を持ちます。

祈祷は、自分という「個」が、神という「個」と、一対一で向き合い対話するものです。それが祈りの基本です。容易に存在を実感できない、見えない神と個と個の対話をするには、個を示す存在感をもつ呼び名が必要です。そのため性別は明確でなければならないのです。

しかし、「天の父母」は「個」ではなく、性別も不詳です。この神名の矛盾は、「男」でも「女」でもなく、「父」でも「母」でもないということです。人間は男・女という別の性で、「個」として存在します。例外はありません。動物や、すべての存在も陽・陰があるのです。ですから私たちは、そもそも「性別をもたない存在」をイメージできないのです。人間の感性から、この神名では、個と個の対話は不可能です。

イエス様の「アバ、父よ!」(マルコ14.36)という「アバ」は、古代アラム語のかなりくだけた、生活化した表現で、「お父さん」という語感です。アボニムも、「アボジよ!」と祈りました。「アボニム」、「アボジ」も「父」、「お父様」も生活化した親しみある言葉です。

しかし、「天の父母」のばあい、「父母よ!」という呼びかけは成立しません。それは「父母」が生活化できない言葉だからです。ウィルソン教授が奇しくも「天の父母に対する食口の認識は形式」と批判しましたが、元来、「天の父母」が形式的な用語なのです。「父母様!」と呼びかけるのでしょうが、どう考えても、「お父様!」のように生活化し、神と深い情緒的関係を結べるような呼びかけではありません。ですから教授が指摘したように、食口は「お父様、お父様、お父様」と呼びかけてしまうのです。

面白いことに、家庭連合の月刊誌「世界家庭」をみれば、「天の父母様(神様)9月号P,28というように、あえて、天の父母様に、(神様)とただし書きをしていることです。「天のお父様」ならばこんな必要はありません。この呼称を使い始めて5年も経っているのです。いまだに「神様」とただし書きをしなければならない神名。これを見れば、「天の父母様」が、「神様」を表現するのに、信仰上、イメージ上、解決不可能な問題をもつ呼称であることが、一目瞭然です。

そのため、ウィルソン教授は、男性は「天の父」、女性は「天の母」に祈り、それぞれの性にかなったよい解決策を求めよと言います。こんな提案は、まさに「天の父母」が欠陥神名であることを告白するようなものです。神を「父」と「母」と二分し、それぞれの性に応じた神に祈れという神信仰は、旧約、新約、成約時代を通じて存在せず、アボニムのあらゆるみ言の中にもありません。このウィルソン教授のアイディアは、宗教としても、信仰の慣習としても極めて陳腐なものです。

アメリカの巨大教団モルモン教には、神は「父なる神」と「母なる神」があるという神認識をもちます。しかし、イエス様の教えに従い、天の父と祈ります。187年の歴史をもつモルモン教の神の呼称は、私たちやキリスト教会とおなじ「天のお父様」です。おなじくアメリカ発祥のエホバの証人も、「エホバ」という神名を持ちますが、やはり「天のお父様」と親しみをこめて祈るのです。

キリスト教は、「天のお父様」という神名を共有します。これはキリスト教諸派の融和、協力にとって重要なポイントなのです。せっかく同じ祈りで統一されているキリスト教のよき伝統を、家庭連合は「天の父母」などという、不可解な神名を採用し、孤立することになりました。いくら韓氏オモニが「天の父母様」はいい呼び名だと誇っても、世界のキリスト教徒がこの呼称を相手にすることはありません。

それでは、アボニムの神観を考えて見ましょう。アボニムの「天の父」は、ウィルソン教授がいうような、男尊女卑の思想が反映したものではありません。アボニムの「天の父」は、男性的な強い神であるとともに、悲しみと切なさの思いをたたえる、女性的心情も強く兼ねそなえた神です。

 

・神様の心情には、創造理想を失われた悲しみと、このみ旨をなすために預言者、聖人たちを送ってサタンと闘わせた歴史的な悲しみがある。 ・切ない神様の事情を知る者なら、悔い改める前に、身を置く場所を失い、自分の足りなさに涙するであろうし、お父様と呼ぶ前に、慟哭するであろう。 『み旨の道』

 

メシア・アボニムが祈った「天の父」の個性は、悲しみと切なさなど、人間の悲哀を受けとめ、つらい復帰歴史を人に先駆け歩まれた、「心情の神」です。「天の父」のなかに、豊かな「母性」があるのです。また、聖書の、ダビデの詩編は女性的で、ソロモンの箴言は男性的です。日本人の神はより母性的で、韓国人の神はより父性的です。男性にとって神は、男性的要素を強く感じ、女性にとって神は女性的要素を強く感じるでしょう。私たちは、男は男なりに、女は女なりに、人のあらゆる心情を包容することができる、広大無辺で海のように深い心をもった「天のお父様」に祈りを捧げれば良いのです。

 

3,信仰の故郷を奪う歴史観

 

《成約聖歌がキリスト教の歌?》

 

ウィルソン教授は、「天の父母」という神名を歴史観で正当化します。

 

私たちが天一国を建設するのであれば、神さまを正確に理解しなければなりません。そのことが、神さまをいっそう理解できるように手助けし、真の愛を実践するのを導いてくれるでしょう。私たちの教会もキリスト教から出発したので、このような転換がおこったのです。真のお父様は、キリスト教から出発されました。主の祈りをみれば、イエス様は祈祷するとき、我らの父といわれました。また、お父様も祈るとき99パーセントは、神さまを父と呼んでおられます。そして、「新エデンの歌」のような聖歌をみれば、すべての内容が父に関するものです。また、私たちの聖歌の大部分は、真のお母様が登場するまえに、聖婚式以前の1950年代に作詞、作曲されたものです。日付をしらべ、聖歌を研究してみれば、その大部分がキリスト教の歌であることが分かります。また、真のお父様が書かれた歌詞は、ほとんど1950年代に書かれたものです。教会では、統一教会の根、草創期の心情に帰ろうという話をしていますが、私たちが注意するべき点は、教会の草創期と現在、私たちがいる天一国とはまったく異なるという点です。

 

この発言も何でもないような気がしますが、アボニムの教えを否定する内容が満載です。まず、分かりやすい部分は、「日付をしらべ、聖歌を研究してみれば、その大部分がキリスト教の歌であることが分かります」と指摘しています。

はたして聖歌を「キリスト教の歌」と思って歌っている食口がいるでしょうか? みな、私たちの聖歌、成約聖歌と思っています。教授は極めて珍しい感覚の持ち主です。彼は、多くの成約聖歌を「キリスト教の歌」に分類しましたが、ならば、「統一教会の歌」とは何なのでしょう。聞いてみたいものです。

教授の学説では、神の呼称が「父」、「主」、「王」となっている聖歌はキリスト教の歌で、神を「天の父母」と呼ぶ聖歌は「統一教会の歌」ということなのでしょう。そんな歌は聖歌集に一曲もありません。「自分が何を言っているか分かっていますか?」と問いかけてみたくなる話です。

教授の説にしたがえば、1950年にアボニムが作詞した「栄光の賜物」などは、それこそ代表的「キリスト教の歌」ということになります。「統一教会の歌」ではないのですから、アボニムの天一国国歌「栄光の賜物」を廃することに何の抵抗もなかったはずです。

また、「私たちが天一国を建設するのであれば、神さまを正確に理解しなければなりません」と、偽天一国以前の神認識が不正確だったような、一方的な主張をしています。教授にとっては、「天の父母」の神名を受け入れることが神の本性を正確に理解することで、それ以外の、「父」、「主」、「王」と呼称する者は、神認識が不正確だということです。何と荒唐無稽で強引な論理でしょうか。

「私たちの教会もキリスト教から出発したので、このような転換がおこったのです。真のお父様は、キリスト教から出発されました」と指摘します。これなどは、教授の原理観、摂理観がどうなっているか、まったく不可解です。統一原理から、ユダヤ・キリスト教の要素を除いたらどうなりますか? 統一教会は、ユダヤ・キリスト教を土台とします。復帰摂理の中心宗教であるキリスト教から出発するのは、神の摂理以外の何ものでもないのです。キリスト教と統一教会はひとつの流れです。

ですから、キリスト教の神、メシア思想、世界観、歴史観、文化などの、多くのよき伝統は、引き継ぎ、当然、讃美歌、聖歌も引き継ぐのです。それをことさら「キリスト教の歌」と分類するのは、アボニムの摂理観と、統一教会の信仰をわきまえない奇妙な見方です。

ウィルソン教授の歴史観を要約すれば、「神を〈父〉としか呼べなかった遅れた時代と、神を〈天の父母〉と呼び、神の本性をより正確に理解できる、進んだ天一国時代とはまったく異なる」というものです。教授の説は「天の父」をいただいたアボニム時代をおとしめ、「天の父母」をいただく韓氏オモニ時代を高める意図が歴々としています。

そして、ウィルソン教授の学説が導く恐るべき結論は、「天の父母」という神名を確信できず、「天の父母」と祈ることができなかったアボニムは、神の本性を正確にとらえていない方であったとなることです。

では、み言を見てみましょう。アボニムは、神と人の父子の因縁についてこう述べます。

 

 ・これから神様の真の姿を知るように努めなさい。そして次には、「お父様!」と叫ぶだけで痛哭する先生に学びなさい。 ・父子の間の心情は、革命を起こすことができない。それは神さまもなすことができない。神様は、父子の因縁を教えるのが最後の目的である。世界を統一することのできる武器は、父子の因縁である。 『み旨の道』

 

ウィルソン教授は、このアボニムのみ言をどう評価するのでしょうか。神を「父」と呼んでいるので、神の本性について不正確で、価値が低い内容とでも評するのでしょうか。アボニムも私たちも親しみをこめ、神を「父」と呼んできました。すなわち、「父」という神名で神との因縁を築きあげてきたのです。それを家庭連合は、韓氏オモニの一片の命令で、「天の父」を廃し、「天の父母」に改ざんしました。その暴挙を、学者の知性で正当化したのが、ウィルソン教授の講義です。しかし、考えてみてください、アボニムの前でこんな講義ができたと思いますか?

皆さんは、インターネットで、ウィルソン教授の講義を見ることができるので、ぜひご覧になってください。小山田天一国最高委員、トーマス・ウォルシュUPF世界会長、宋龍天総会長、徳野会長など、家庭連合の最高幹部たちが顔をそろえて出席しています。この映像には、韓氏オモニの異端行為を正当化し、その権威を高める講義を、世界の指導者が熱心に傾聴している光景が映し出されます。アボニムが、ご自身が認めない偽りの教義に納得し、拍手をおくる弟子たちの姿を見つめ、どれほど嘆かれておられるでしょうか? これが、今の家庭連合指導者たちの情けない実態です。

 

《アボニムの歴史観と宗教の光源》

 

それでは、アボニムの歴史観を見てみましょう。ワシントン大会の翌年、1977年5月1日のみ言に、このような内容があります。

 

1947年から統一教会の公的な復帰が始まる1954年までの7年間は、統一教会が実に信じ難い苦難を通過した期間であり、この7年間に実体的な組織を発足するための実体的な条件を立てるために北韓共産陣営での苦役等、言語を絶するようなあらゆる苦難を通過したのです。

 

きょう、統一教会の創立24周年を迎えましたが、この24年間は教会の外的な歴史であり、教会創立の基台をつくろうとした創立以前の歴史こそ本当の統一教会の歴史です。そしてそれはわずかな人々のみが知っています。そして先生が真に信頼できるのは、そういう時代を共にしたこの人々だけです。    (両み言とも『御旨と世界』,「創立以前の内的教会史」から引用)

 

アボニムの歴史観は、教会が創立された1954年以前の時代、お一人で、あるいは数人の食口と歩んだ苦難の時代を「本当の統一教会の歴史」、すなわち、最も重要な時代とします。「先生が真に信頼できるのは、そういう時代を共にしたこの人々だけ」と語りました。今日、この時代を共にされた方は、女性では、最元老食口として、アボニムが、統一教会の母と讃えた康賢實先生がいらっしゃいます。昨年の11月、康先生は命がけでアメリカに赴き、文亨進二代王に帰依なさいました。

そして9月23日、先生は、天と真のお父様の導きにより、文亨進二代王が主管する「天地人真の父母様天宙完成祝福聖婚式」において、真のお父様とご聖婚をなさり、「完成級の真のお母様」に推戴されました。まさに、上のお父様のみ言どおり、康賢實先生こそ、アボニムを心から愛し侍ることにより、韓氏オモニの反逆行為を克服し、真のお母様になることができる、アボニムが唯一信頼できる尊い御方だったのです。

 実に、アボニムがお一人で、或いは少数の群れを率いて苦難を受けた時こそ、神とアボニム、そして私たちにとっても、一番重要な時代なのです。この期間が、統一食口すべての「信仰と心情の故郷」と言えるものです。ですからアボニムは、2006年、天正宮入宮に際し、1950年にご自身が作詞した「栄光の賜物」を国歌に制定し、天一国国民が永遠に歌い継ぐ歌と定めたのです。

 これは多くの宗教についても言えることです。キリスト教は、イエスの馬小屋誕生、苦難の生涯、十字架の苦しみと復活をつねに想起します。ユダヤ教ではモーセが導き、荒野で苦難を味わった出エジプトの記憶がどんなに貴重でしょうか。仏教ではブッダの過酷な修行と菩提樹の下の悟りが重要です。これら宗教の信徒たちは聖人の苦難の歩みを生命視し、ここに最も深い思いを向けます。

 宗教は、教祖が生きて苦難の歩みをした時代を、自らの宗教のみならず、宇宙史、人類史の光源(光のみなもと)とします。この光源が天宙と森羅万象のすべてを照らすのです。メシア・アボニムの正統歴史観は、それをご自身の苦難の時代とします。

ところが家庭連合は、偽天一国時代、すなわちアボニムの聖和後を、最も重要な時代とし、何かと言えば天一国新時代を宣伝します。すなわち韓氏オモニが支配するようになった偽天一国を、家庭連合の光源としているのです。これは、統一教会信仰の真実の光源を奪い、偽りの光源に置き換えることです。すなわち、アボニムと私たちの「信仰の故郷」を奪う異端の歴史観なのです。

家庭連合は、アボニム聖和から5年、アボニムの血統、真理、伝統、文化を葬り去ろうと、多くの陰謀を企てて来ました。2017年、いよいよ今年はその陰謀が完成します。アボニムは原罪を持って生まれ、それを隠していた偽り者とする独生女論を、全食口に強要しようとしているのです。この教義が定着すれば、韓氏オモニがアボニムの上に立つ女性メシアになり、家庭連合の陰謀は成功します。今まさに統一食口は最大の危機に直面しています。

私たちサンクチュアリ教会は、韓氏オモニの陰謀を必ず阻止します。7月16日、文亨進二代王は、「適正な秩序の王国」の説教のなかで、このように述べました。

 

お父様は ―、文字通り、すべての瞬間を私たちのために苦難の道を歩いて下さいました。10億の何兆倍のそのまた何兆倍もの苦難です。私たちはその全体を理解することなどできません。しかしその苦難の理由、背後の心情、それを介して少し理解できるのです。

 

今まで私たちは、アボニムの苦難を多くの言葉で表現して来ましたが、このような宇宙的スケールで語った方はいません。文亨進二代王は、アボニムの苦難の路程が天宙のすべてを照らす光源であると、最大級の表現で私たちに教えて下さっているのです。二代王こそが、統一運動にアボニムの真の光源を取り戻し、全ての統一食口を、信仰の故郷に帰還させることができる唯一の指導者です。家庭連合の皆さん、文亨進二代王に一刻も早く帰依し、メシア・アボニムの真理のみ旗を高くかかげ、家庭連合の異端陰謀を打ち砕くため、共に闘いましょう!