【安藤修さん 聖和式における送辞のご紹介】
先日ご案内しましたように、安藤修さんが4月5日午前4時30分、脳出血のため聖和されました。昭和19年1月2日生まれ、享年73才でした。帰歓式は4月7日、聖和式は4月8日の10時半から無事執り行われました。
その中で九州有明サンクチュアリ教会の松本教会長の送辞がとても感動的でしたので、こちらに紹介させていただきます。
松本教会長は2016年2月13日の祝福式に安藤さんと一緒に訪米され、ホテルで同室となって親交を深められました。帰国後も毎週連絡を取り、兄弟の心情を育んで来られました。
私達は戦争がいつ勃発してもおかしくない審判の真っただ中にあり、内外共に余裕がありません。そんな中にも関わらず、安藤さんと松本さんが築かれた兄弟の心情こそ、お父様が一番願われ、喜ばれることだと信じます。
このような心情の絆がサンクチュアリ教会において育まれ、お父様に捧げられたことを本当に嬉しく、ありがたく思います。是非ご覧になり、安藤さんのためにお祈りをして下さい。(2017/4/11)
安藤 修さんとの出会い
九州有明サンクチュアリ教会 福岡教会長 松本昌昭
私と安藤さんの出会いは、2016年2月13日にアメリカのペンシルベニア州のサンクチュアリ教会本部で行われた2100双の祝福式に参加したとき、宿泊したホテルで同室になったことでした。飛行機がエンジントラブルで6時間近く遅れて、夜中の3時くらいにホテルに到着しました。江利川会長が寝ないで私たちを待っておられました。そして、到着したメンバーはたぶん会長が決められたと思いますが、その部屋割りにしたがって各部屋に分かれていきました。そして私が指定された部屋に入ってみると、ツインベッドの一つにすでに男性が寝ていました。それが、安藤 修さんでした。安藤さんは目を覚まして、一言二言お互いに挨拶をして、その日は寝ました。
翌朝目を覚まして安藤さんをよく見ると、私よりもだいぶん年上の男性とわかりました。簡単な自己紹介をしながら私は、安藤さんが無呼吸症候群であることを言いました。昨夜、寝ているときに安藤さんの呼吸が時々止まることを知ったからです。そんな会話をしながら、打ち解けていきました。
その夜、安藤さんが「今回ペンシルベニアに来たけれど、サンクチャリのことや、お母様のことが、実はよく分かっていない。」と言い始めました。私は、何か安藤さんをお世話しなければならない使命を感じて、その夜はまずお母様の2014.7.1の講話で発言された「自分の無原罪誕生とお父様は原罪を持って誕生されたこと」について話しました。
式典が終わり、私達は「お父様を守る3000家庭」のみ言をいただいて帰ってきました。
安藤さんは横浜に、私は福岡に帰りました。私は安藤さんが奥様に先立たれて一人暮らしであることを聞いていましたし、また近くにサンクチュアリのメンバーもいないことを聞いていましたので、孤立している安藤さんを励ますために、週に1度電話することを決意しました。それから約1年1ヶ月、私達は交流してきました。
安藤さんは何も分からない自分を、サンクチュアリ教会に導いてくださった梶山さんにとても感謝しておられました。そして決定打はペンシルベニア州のサンクチュアリ教会本部に行くことを、電話で直接誘って下さった江利川会長だと言っておられました。そしてホテルで同室になった私との出会いも、神様の導きだと感謝して下さいました。
ホテルの部屋割りをされた江利川会長に、神様の導きがあったことを感じます。安藤さんは霊の親をとても尊敬していて、サンクチュアリ教会に導こうと頑張っていました。どういう資料を持って行ったらいいか話し合いながら、片道2時間かけて会いに行っていました。そして結果を聞いた私に「仕事で疲れているみたいで、この前渡した資料まだ見ていませんでした。」と言い訳して霊の親をかばう安藤さんの声を聞きながら、私は安藤さんは本当に優しい心の人だと思いました。「霊の親を導くのは、今は無理かもしれないですね」と言うと「そう思います」と寂しそうにいう声を覚えています。
安藤さんはよく「何の能力もない自分が、何故サンクチュアリ教会に導かれたのだろう。来ている人を見ると、みんなすごいですね」と言いました。わたしは「安藤さんは、とても素直です。所々頑固なところも有りますが、でも素直です。梶山さんと江利川会長のことばを信じる素直さが安藤さんの能力です。そして、奥さんが霊界から導いておられると思います。」と感じる事を言いました。
奥さんに先立たれて寂しそうな様子も有りましたが、奥様にとても感謝して、愛しておられました。沖縄出身の奥様に「よく自分と一緒になってくれた」と言いながら、霊界で再会することを楽しみに生きておられる感じがしました。
冗談で、「一人暮らしの今の状況だと孤独死になるかもしれない」と二人で言いながら、「思い切って、九州に来て、私と一緒にサンクチュアリ教会の仕事をしませんか」と言ってみました。
実は私は本気で考えていましたが、やはり住み慣れた横浜を離れるのは躊躇するみたいで安藤さんの返事はありませんでした。サンクチュアリ教会に導いた梶山さんも、心配して、一緒に住むことを考えたと言われています。
月に一度、本部教会の礼拝に参加して、後は私との交流という形で1年が過ぎました。そして各地に救命ボートが続々と出来てくるようになりました。
去年の12月だと思いますが、横浜市青葉区に宮沢さんが救命ボートとして立ち上がられたことを知りまして、連絡を取りました。やっと宮沢さんを中心に地元の交流が出来るようになり、一安心しました。安藤さんも張り切っていました。
2月になって韓半島情勢の急変により、日本の生き残りの道はトランプ大統領のアメリカと一体化する以外にない。その事を、国民に知らせる運動をしなければならないという方針が出ました。
そして街頭活動を始めましたが、安藤さんは、愛国心に火がついたように積極的に参加していました。「自分は演説をする能力はないのでチラシ配りをします」と言いながら、国を救う使命感に燃えて頑張っていました。
そして、2月18日、19日に1年に1回の代表者会議があるので、私が上京することになりました。
せっかくなので、1日早く上京して、ペンシルベニア以来1年ぶりに安藤さんと会い、自宅に泊めていただきました。奥様との思い出が残る公団の部屋で、安藤さんの男の手料理をいただきながら、いろんな話をしました。
「いつかは一人暮らしが出来なくなる時どうするか。九州に来ますか?」と言う私に
「そのうち横浜も人が多くなり忙しくなるだろう。横浜で活動する使命が有るかも知れない。」と安藤さんは言いながら床につきました。
18日の朝、会議に向かう私に会長に渡してほしいと、急いで書いたメモの手紙を渡されました。有楽町での街頭活動に参加したとき、会長が「安藤さん元気ですか」と声をかけて下さったと喜びながら話して、「お礼の手紙です。会長に渡して下さい」と頼まれました。私は群馬セミナーハウスで待っておられた江利川会長に確かにお渡ししました。
会議が終わって九州に帰ってきて、街頭活動が忙しくなってきました。安藤さんも張り切って、新宿のデモ行進に参加したと、電話で報告してくれました。4月9日の菅井さんの本部礼拝を、「難しい内容だ」と言いながら楽しみにしておられました。
4月3日、月曜日の昼頃電話を掛けましたが出られませんでした。夕方掛けましたが、また出られませんでした。その日私は夜勤の仕事で出かけました。少し胸騒ぎがしました。
翌日4日9時に仕事が終わり、宮沢さんに電話をしました。宮沢さんも集会の連絡をしたが、通じないと言うことでした。「私、今から行ってきます」と言って、宮沢さんは安藤さんの家に向かいました。
後は皆さんご存じの通り、弟さんの到着を待って、ドアの鍵を壊して部屋に入ってみると安藤さんが倒れておられたということです。わたしはこの前、安藤さんの部屋に泊めていただいたので、電話で宮沢さんから報告を受けたとき部屋で倒れている安藤さんの姿が見えました。
宮沢さんを中心に集会も出来るようになりましたし、自衛隊出身の愛国心に火をつける街頭活動に燃えていた安藤さんだったのに。この時期に何故と思いました。しかし8億人の愛国者達が解放されたこのとき、それらの人々の先頭にたって歩む使命が安藤さんにあるのではないかと、今、思っています。
「自分には摂理に貢献する何の能力もない」と言っていた安藤さんでしたが、マティス国防長官の来日歓迎のプラカードを高く掲げる安藤さんの写真は、天の勇士の姿そのものです。
奥様が待っておられた霊界で、奥様とともに天のみ旨に、何の心の迷いもなく、歩まれる安藤さんの姿が思い浮かびます。私は、今、安藤さんを力強く送り出したいと思っています。
頑張れ安藤さん!! わたしたちも頑張ります。
最後に、安藤さんが弟さんのことを気遣っておられたことをお伝えします。複雑な家庭事情で、あまり話されませんでしたが、お母さんと弟さんの事を気遣っておられました。今回、安藤さんの旅立ちの費用を全ての引き受けていただきありがとうございます。安藤さんが申し訳なさそうに、しかし、感謝しておられる姿が思い浮かびます。本当にありがとうございました。
参列の皆さん本当にありがとうございました。
安藤さんを、元気に送り出してください。
九州の地より祈っています。
2017年4月7日 (天基8年 天暦3月11日)